ひたちなか海浜鉄道と地域がどのように歩んできたのかをご紹介します。
ひたちなか海浜鉄道の大本となった湊鉄道株式会社ができたのは1907(明治40)年。
日清戦争・日露戦争を経験した当時、多くの鉄道は軍事上重要なインフラとして国有化されていましたが、
湊鉄道線は一地方の交通・運搬を目的としたものとして私鉄としてのスタートを切ることになりました。
日本初の鉄道(新橋・横浜間)が開通した1872(明治5)年からおよそ35年が経ってからのことです。
しかし、当時は不況で、決して順風満帆とは言えないスタートを切ることになりました。
資金不足のため用地買収や鉄道の建設工事が順調に進まず、勝田・那珂湊間が開通するまでにおよそ6年の年月を要したのです。
開通後は、湯治客を呼び込んだり、海水浴場への送客などの経営努力を行ってきましたが、慢性的な不況に悩まされ、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年に茨城交通株式会社に合併されることになります。
太平洋戦争後、茨城交通株式会社に合併された湊線は新たなスタートを切りました。
戦後は日本中が燃料不足。低燃費で輸送力のある鉄道が、地域の旅客輸送・貨物輸送の需要を支えたのです。
旅客輸送は、群馬、栃木、埼玉県方面からの平磯海岸への潮湯治客、磯遊びなどのレジャー客が多く、夏季には阿字ヶ浦海岸への海水浴客が大幅に増えました。
また、貨物輸送には、陸揚げされた鮮魚、特にさんまの輸送が増えていきました。
インフレによる物価高騰、従業員の待遇改善による人件費の高騰が重なったこともあり、営業成績自体がこのペースで著しく伸びたということではありません。
ただ、収益は年々伸び、時に前年のおよそ3倍を記録する年もありつつ、1953(昭和28)年に輸送ピークを迎えます。
戦後からおよそ10年間の短い「好景気」の後、貨物輸送は1952(昭和28)年をピークに車貨物輸送に奪われていき、
旅客輸送も昭和30年半ば頃からモータリゼーションの影響を受けて数を減らしていきます。
沿線の神社仏閣・名所旧跡、縁日などの各種行事の宣伝や売店開設などによる増収努力、
自動券売機設置により一部の駅を無人化するなどの人件費削減などの経営努力をさまざま行いますが、
1984年(昭和59年)に貨物取り扱いを全線で停止、旅客輸送人員も少しずつ減り続け、
2008(平成20)年に茨城交通株式会社時代の長い歴史に幕を閉じることになります。
2008(平成20)年、茨城交通株式会社から分社化、
ひたちなか市と茨城交通株式会社が共同出資する第3セクターのひたちなか海浜鉄道として新たなスタートを切りました。
社長には、公募により吉田千秋が就任。利用者を増やすため、
地元の人たちの理解と賛同を得ながら、サービスの向上や通学定期の値引き、ダイヤ改正、タイアップなどの経営努力を行ってきました。
こうした努力の甲斐あり、2011(平成23)年には黒字化目前までになりました。
しかし、3月11日の東日本大震災により大きく後退……。
地元の人の足としての使命を果たすため、全力で復旧に取り組み、同年の7月23日に全線復旧を果たしました。
復旧後は徐々に回復し、2020(令和3)年以降は震災前の輸送水準を上回るまでになりました。
2021(令和3)年には海浜公園西口付近までの延伸許可も認可され、湊線は新たな一歩を踏み出します。